えびせんべい、いかせんべいの製造直売、えびせんべいの一色屋




    

 今から約100年前の明治の中ごろ。『かまぼこ文吉』という人が、安休寺(西尾市一色町)に住んでいました。

 このころの一色町は、豊かな三河湾で捕れる海の幸で、大いに栄えた半農半漁の町でした。活きのいい魚や貝。その中に混じって体長数センチの桜色をした「アカシエビ」白色の「シロシャエビ」という小エビが捕れました。蒲郡では通称「ざるエビ」と呼ばれていました。

 当時このえびは、国内で食用としての需要は振わず、北海道のニシンとともに乾燥して肥料に用いられていたようです。また、その一部は乾燥加工され「カジキエビ」の名のもとに、隣国の中国へ輸出されていました。

 中国では、この乾燥えびを水に浸して柔らかくし、コーンスターチ(とうもろこしの粉)で焼いて「えびせんべい」として、再び日本に輸出していました。それは、高級品として庶民には手の届かないものだったようです。





 

 ちくわやかまぼこなどの練り物の製造を生業(なりわい)としていた文吉は、ある日、高価な中国から輸入した「えびせんべい」を口にして、一念発起の思いで、「えびせんべい」の製造に取りかかったのです。


 文吉は、乾燥エビの代わりに、良味を加えることができる生エビを使い、それを肉引きで引いて、じゃがいもの澱粉(でんぷん)を混ぜあわせ焼きました。この改良によって、エビ本来のうまみが増したのです。

 そして、文吉の「えびせんべい」創案からさほど時を経ず、画期的ともいえる、エビの多量処理の工夫をしたのが、伊勢富田の地から来移していた通称“ひげ貞”です。

 ひげ貞は、ヂャカラン蒸し器で多量のエビを処理し、包丁で細かく切ってから澱粉に混ぜて焼く製法を考案。この製法によって「えびせんべい」を多量に、しかも安価に販売する道が開かれたのです。

 「えびせんべい」の創始発案者“かまぼこ文吉”と、それを世に広めた “ひげ貞”。二人の偉大な先駆者によってえびせんべいは生まれました。と語り次がれています。